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安河内家初代成実に至るまでの系図

 これが和白系の本家が保存していた安河内家の出自を証明する系図です。遡れば清和天皇を起源とする源氏だったんですね。清和天皇から辿っていけば、「義 康」のところで初代足利家が誕生し、その子孫である「義季」が初代細川家となります。この細川家の末裔として安河内家のご先祖様=成実が誕生しますので、 最初の名前は「細川三郎太郎頼実」なのです。なぜこれを「安河内」と改めたかと言いますと、父・頼和が和泉国(いずみのくに)に移り住んだことに端をほっ します。そこで生まれた細川三郎太郎頼実は楠判官正成に属し和泉国安河内郷を領します。1322年4月10日、正成より諱の一字を授かって、改め「安河内 新右衛門成実」と称するようになりました。

 これで安河内家のご先祖様とその由来がハッキリしたと思いきや、実はこの系図には重大な問題があります。系図の事実確認をするために福岡市総合図書館に ある「清和源氏740氏族系図」で一人ずつ指で辿りながら確認しました。すると、私の資料では「和氏」の四人の子供の中の次男が「頼利」になっているの に、「清和源氏740氏族系図」では「頼和」となっています。兄弟構成は間違っていないし、どちらも次男なので、一字写し間違えたと考えて「頼和」と「頼 利」は同一人物としました。しかし、「清和源氏740氏族系図」では「頼和(=頼利)」の子供は「義和」一人で「頼寛」はどこにも見当たりません。せっか くご先祖様=成実が明らかになったので、その父・頼寛の存在が証明できないとは・・・。どなかたこの辺の系図の流れを証明できるかた、いらっしゃいません か。分かれば分かるほど、また新たな謎を呼ぶ・・・これがルーツ探しの面白みの一つです。楽しみながら真実を究明しましょう。

 この系図を元に複数の系図をつなぎ合わせて「安河内家・大家系図」の作成を企画しています。安河内家に関する情報があれば、どんな些細なことでもご連絡下さい。個人で系図を所蔵していらっしゃる方、ぜひご一報下さい。皆様の系図をまとめて、共通人物がいれば二つの系図を一つにします。昨日の他人も今日は親戚です。同じ姓を持つ大家族になろうではありませんか。

 清和天皇より更に上を遡ろうと思えば出来なくもありません。しかし、ここから上は天照大神(アマテラスオオミノカミ)やイザナギノミコトの世界に入って きますから、清和天皇を全ての起源とすることにしました。

 

成実以降の系図

成実以降 各氏の詳細

1.成実

新右衛門と号し楠木正成領に属する泉州安河内郷を元享2年4月10日分家して領し、諱名を成実と称す。この折の紙代々家に伝う。

2.成春

三郎左衛門と号し、楠木正行に属し、四条縄手の戦で戦死

3.実資

三郎四郎と号す

4. 久三

計主と号す

5.成氏

源助と号し三好長慶に属し、数度の軍功あり

6.成久

備前守と号す。今川了俊に随い始めて九州に下り、筑前三笠郷を領し唐山城に在す。

7.延嘉

筑前守と号す。後に山城守となり筑前席田郡を領し稲居塚城に居る。大友家に属し甚だ軍功あり。慶長3年月10日病死。年78才粕屋郡別府村古野山に葬る。

 

8.延重

童名を亀次丸と号し、後源兵衛と改め大友家に属す。筑後陣の時16才にて出陣戦功あり。大友義統賞して感書を賜る。高麗陣以後那珂郡之粕屋村に住居す。妻は大友一族萩尾大学統勝の娘。明暦2(1656)年5月3日病死。年78才

9. 延昌

三助と号し後に虎昌と改む。立花道雪に属し裏粕屋郡下和白を領す。

 

10. 宗久

弥九郎と号し後に源助虎秀と改む。道雪に属す。慶長年中国君長政公入国の砌、賦税の地を賜り粕屋郡中之農司、帯刀鞍馬を免ぜらる。妻は表粕屋郡別府村牛房民の女なり。宗久農司の元祖、万治3(1660)年6月23日病死。年89才。

11.久安

久兵衛と号し延重の子、元禄元(1688)年2月6日病死、年98才。

12.宗元

源兵衛と号す。元禄14(1701)年8月20日病死、四男あり。

13.宗実

善右衛門を号す。国名を受けて下原庄官となる。このときから帯剱を削られる。帰農す。

14.延勝

九郎右衛門と号す。国名により庄官を授かる。嗣子至愚にて荘長となる事が出来ず、同巴の秦氏が庄官を賜る。

15.成吉

善兵衛と号し、二男作右エ門。四兵衛あり。

16.吉延

市郎兵衛と号す。其の子久兵衛 後改めて占部氏。其子久兵衛。

17.昌勝

市郎兵衛門と号し、元禄5(1692)年5月27日病死。年81才、三女あり。

18.廷雄

安兵衛と号す。二男あり。新六、武兵衛。

19.利資

半四郎と号す。祖父勲労により、また国命を蒙り郡官兼領庄官をうける。この時泰氏は荘官を辞させられた。

20.宗利

善助と号す。半四郎の弟也。嗣子となり郡官(觸口後大庄屋となる)を授かる。この時から国君綱政公の命により、新に休殿居命を超作す。其の荘飾兀然潔白の 故に、太守公しばしば此の休殿に止宿さる。時に臨み製造之工匠土地開均の分、凡そ一万余統、是を賜る。宗利の棟土也。其の古跡今茸山と云い、土居の上柳に 有り。其厳然たり。
 郡官其荘然之殿舎嗣子貧愚而斯飾縄之事吝己と呼ぶ可し。しかる後宗利享保5年5月27日病卒。年58才(1720年)

21. 利氏

孫市と号す。同じく荘官なり。二女あり。享保9年7月4日病逝。年79才(1724年)

22.利春

亦八郎と号す。粕屋郡別府村牛房氏、嗣子なき故育子となる。 

23.利久

24.利勝

25.秀勝

26.義勝

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