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立花城の歴史

戦国時代(1400~1600

  古賀市の南部に位置する立花山は、古名を二神山といい、「イザナギ、イザナミ」の二神を祭っていたといわれています。最高峰 (367.1M)を井楼岳、その北西峰(337M)を松尾岳、その西側峰(314.6M)を白岳と呼び、この三峰が立花山の主要山塊を形成しています。
 この立花山が歴史の舞台に登場するのは、山頂に立花城が築かれてからで、その後三世紀にわたり筑前の軍事的拠点として大きな役割をはたし、古賀市の歴史 にも大きな関わりを持ちます。この時代になると、資料も多く図書も沢山あります。また古賀市の歴史講座でも多くの史跡資料が説明されましたので、これらを もとに歴史探訪してみます。
これにはまず大友一族の歴史を整理しておく必要があります。

 

大友一族

大友一族は、鎌倉幕府の源頼朝の命により、豊後府内に下ってきた大友能直(初代)が、近隣の土豪を平定して領国を拡げていき、豊後の守護となったのがはじめです。(能直は頼朝の庶子で、頼朝の側近として活躍し、奥州藤原の討伐に勲功をたてた人物のようです。)
 その後中央の政権が替わっても、豊後(大分)を本拠地にして約400年間(22代)続いた名門で、血縁関係の戸次、吉弘、臼杵、田原、一万田、立花、高 橋など62家に及ぶ同紋衆の武将団結で、北部九州の支配を続けました。建武の新制では、最初は後醍醐天皇のもとで、足利尊氏と共に北条軍と戦いましたが、 天皇の専制的政治に反感をもち、尊氏について多々良の合戦にも参加したことは、前節でも述べました。

 豊後の守護大名として行動してきた大友氏が、次第に博多寄りに領地の拡大をはかったのは、元寇のときに香椎浜の防御を担当したおりに、貿易港「博多」の 魅力を実感したのと、博多周辺における少弐氏の勢力が相対的に衰退したからではないかと推測されます。そこで立花山に立花城を築きましたが、戦乱の時代の 中で幾たびか攻略されたり、奪回したりして、秀吉の九州統一の時代に廃城になるまで、257年間存続しました。

 

築城時代

立花城は1330年に、豊後の守護大名、大友貞宗(六代)の次男、貞載により築城された山城です。貞載は次男でしたが、父貞宗は、長男、次男はいつも父と戦場で戦うので、いつ共倒れしてもいいように、早々と五男氏秦に家督を継承させます。
その代わり次男貞載は、北条氏残党の反乱を平定した功により肥前国守護を任じられたのを機会に、豊後は弟氏秦にまかせて、肥前には守護代斉藤入道正遍をお き、自分は元寇の役の防御管領地であった香椎地域に近い立花山の要害地に築城して、筑前博多を押さえる遠大な計画をたて、立花氏を名乗ります。

 豊後が「東の大友」、立花城が「西の大友」と呼ばれ、北九州における大友一族の重要拠点になりました。その後貞載は尊氏に従って、鎌倉、京都進駐を成功 させますが、京都東寺の本陣に降伏のふりをしてきた結城親光の不意討ちにあい、深手を負いながら結城を切り殺しますが、自分も翌日死亡します(1336年 1月;40才前後)。まさに父貞宗の予感が的中した事件にでした。

 貞載の死後、尊氏は京都で敗れて西送し、多々良川の戦で巻き返して再度東上(1336年4月)したことは前節の通りですが、立花城二代目を継いだ弟宗匡 (貞宗の三男)は、尊氏に従って東上し、楠木正成、名和長年らを討伐する戦に功績をあげます。帰国後、宗匡は立花城を拠点にし、少弐頼尚と行動を共にし て、南朝軍との戦いにあけくれますが、前節の最後に述べた青柳の戦(菊池軍との戦い)にも参戦した筈です。この時の立花城軍の具体的な働きの記録は残って 居ません(1361)が、近くの前岳、尾東山、古子山、岳越山などの出城で、どんな戦があったか知りたいものです。

 敗走した大友一族は、しばらく豊後(別府、高崎)で、防戦体制の時代をすごしますが、幕府より任命された新九州探題今川了俊の大軍が九州に上陸し、太宰 府にいた菊池軍を攻撃します。このとき大友宗匡も参戦して、菊池軍を肥後まで撤退させ、宗匡は立花城に戻ります(1371)。しかし今川了俊は、その後九 州探題の権力を強化するため、つぎの菊池軍攻撃におくれた少弐冬資を謀殺してしまうので、大友氏や島津氏は反目するようになります(1375)。軍勢を 失った今川は、幕府にたいして周防の大内義弘の援助を依頼し、1381年に菊池軍の本城隈部城を攻略します。さらに懐良親王も2年後に亡くなり、中央にお いても南北朝の和解が成立して、九州にも平和が戻ります。

 

大内氏の九州支配

今川了俊はさらに南朝残党の撲滅を図ろうとしますが、突然京都に召還されます(1395)。これは大内義弘にとって筑前制覇の夢を実現する絶好の機会となりますが、幕府も所領削減などの圧力をかけたので、義弘は反旗を翻して戦い、かえって敗戦
死します(1399)。
 義弘の弟大内盛見はしばらく幕府にたいして平和政策をとり、1403年には朝鮮貿易を復活させるなどして勢力の拡充をはかります。よそものの大内に貿易 権を奪われることに対して、大友、少弐、菊池三氏は同盟を結んで対抗策をとろうとしますが、強力な大内盛見の軍が1431年4月には立花城を陥落させてし まいます。この時の立花城主は3代~4代の親直か親政の時代でしたが、大内の大きな勢力のもとでは、同盟軍は肥前、肥後や豊後に後退するほか無かったと思 われます。

 しかし勢いに乗りすぎた大内盛見は、同年6月の糸島地区での戦で戦死し、同盟軍は一旦立花城を奪回します。盛見の甥大内持世があとを継いで、太宰府や秋 月を攻略し、さらに大内教弘の代に再び立花城を攻略します(1445)。大友氏は豊後に逃れ、少弐氏は肥前に退いて、大内氏の筑前支配が1465年まで約 20年間続き、貿易の繁栄や道路網の整備などがすすみました。
1467年より始まる応任の乱で、大内氏は西軍の主役となって戦乱に介入しますので、九州に配置していた兵力を殆ど引き上げてしまいます。大友氏は当初日和見的態度でしたが、東軍有利とみると直ちに豊前、筑前に出撃して、1468年に立花城を奪回します。
 一方少弐氏の軍勢も対馬の宗家で成人した少弐頼忠を中心に集まり、壱岐経由で博多に上陸し、さらに太宰府にはいって復帰します。ここで大友と少弐の両氏 による博多支配がしばらく成立します。両者は単独では博多の支配者になれず、文字通り呉越同舟で博多を分治しました。「大友氏は東北六千余戸を治め、少弐 氏は西南四千余戸を治めた。」と当時の朝鮮側の文書に記載されています(1471)。また入り船税(入港税)を両者で折半することにしていたという説もあ ります。大友氏にとっては、この支配の拠点になったのが立花城でした。

 しかし応任の乱が治まると、大内氏は再び大軍を率いて九州に上陸します(1478)。大友・立花氏は大きな反抗をせずに、立花城も開城して降伏したよう です。少弐氏は敗れて肥前に逃れます。そして大内氏主導の筑前支配が、1551年の大内義隆自害まで続きます。
 この間大内氏は、寺社勢力の信用回復のため、多くの寺社の所領復活を行ったようで、古賀市では清滝寺とともに古い医王寺もこの恩恵に浴したようです。し かしこの平和状態の中でも、大内、大友氏内部の相続争いや足利幕府との絡みでの争いなどで決して平穏な時代ではなく、短期間の立花城攻防戦はあったようで す。

 

大友宗麟へ立花鑑載の反乱

 山口で大内義隆が陶晴腎のクーデターに敗れて自害した頃(1551)、大友宗麟は内乱の危機を乗り切って21代大友家の家督を相続 し、陶晴腎と友好を続けながら、筑前・豊前を平定します。さらに筑後、肥後の菊池氏まで滅ぼして、1560年には九州探題職に任命され、九州六ケ国の守護 になります。また、陶晴腎を滅ぼした毛利元就ともうまく和睦します。

 31歳の宗麟は得意満面の時期で、大友氏傘下の諸将軍から賦課金を上納させたり、酒色におぼれて部下を殺し、その妻を奪ったりします。このため大友宗麟 の横暴に反感をもつ武将が増えますが、その代表が立花鑑載です。鑑載は7代目の立花城主ですが、1565年6月に大友宗家への最初の反乱を起こし、7月に は降伏しています。詳しい経緯は不明ですが、とにかく助命されてまた城主に復帰しているので、大きな事件ではなかったと思われます。

 しかしこれを巧く利用しようと考えた毛利方は、1568年に、高橋、秋月らの反乱の際に、鑑載にも毛利方に付くように誘います。かなり迷った鑑載は遂に決心して2度目の反乱に踏切り、謀反を察知して大友家に知らせようとした薦野河内守や米多比
大学らを、立花城内で謀殺してしまいます。立花、毛利、衛藤、原田ら連合軍は一万余、大友軍は二万三千で、4月から7月まで四ヶ月間の攻防戦が続きます。

 大友方は、立花側の武将野田右衛門大夫と密に内通して、その手引きで一斉に城門を破って城に攻め込み、毛利軍、原田軍は自領に退却、衛藤尾張守は戦死し ます。城主立花鑑載もかろうじて城をのがれ、古子山の出城で兵を集め再起を計りますが、兵は十余名しか集まらずついに青柳の松原で自刃します。自刃の場所 は町川原の狐ケ崎で、いまは個人の住宅地のようです。青柳の三柱神社に鑑載は祭られており、境内には鑑載の首なし塚の石があります。

 また新宮町原上には、鑑載の妻が乳飲み子を抱いて城をのがれ、観音様に祈って鳴く子を眠らせたという場所に、「夜泣き観音」のお堂があります。野田右衛 門大夫は中野右衛門ともいい、青柳の豪族であったようです。右衛門も後の岩屋城の戦に応援軍の将としてでかけて、玉砕しています。五所八幡宮のまえに野田 屋敷とよばれる家があり、その子野田若狭の墓も近くにあります。岳越山の登山口にある大日如来坐像には、1475年願主「野田閑」の銘があり、鑑載の自刃 より90年前のものであります。これらより野田家は以前からこの付近に居住していた豪族と思われます。


 

立花道雪と立花宗茂

 立花鑑載の反乱のときの大友軍の主将は戸次鑑連(のちの立花道雪)であり、立花城を攻略したあと翌1569年の正月には肥前で竜造寺 氏の佐賀城を攻撃していました。この隙をみて毛利軍が立花城に攻撃をかけ、立花山麓を四万の大軍で包囲してしまいます。大友勢は急遽、肥前と和睦を結んで 応援に戻りますが、多々良川や香椎周辺で戦線は膠着状態のまま約半年を経過します。

 城中の食料も尽きかけ、餓死寸前までになったので、大友宗麟は開城の決断をして、五月に城を毛利軍に開け渡します。毛利軍も城内の兵を無事に大友軍の陣地までとどけます。しかし攻守ところを変えて戦は続けられ、さらに半年間の膠着状態が続きます。
 その間大友宗麟は山口の大内家復活を理由に一部の軍を山口に進め、また出雲の尼子と同盟して背後より毛利氏を攻撃させます。毛利元就は宗麟の巧妙な戦略 にはまり、やむなく九州より吉川、小早川などの毛利軍を十月に撤退させます。今回は城内の兵を大友軍が芦屋まで送りとどけます。このような中世的武士道の 精神がこの頃まで残っていたようですが、その後鉄砲を使用するようになって、次第に消え失せていきます。この立花城攻防戦は、新宮町歴史資料館のメイン テーマになっており、電光掲示板と音声で判りやすく説明されています

 毛利の撤退で支援を失った高橋、秋月、原田、筑紫、宗像、麻生らの国人たちは宗麟に降伏し、永禄12年(1569)のほぼ一年間にわたる戦乱は治まりま すが、古賀や新宮の農漁民は、田畑を荒らされたり、家を焼かれたり、大きな被害をうけた一年だったと思われます。

 その後武将戸次鑑連(ベッキ・アキツラ)は、立花城の城督に任命されて(1571)、立花道雪を名乗ります。系図では九代目の城主ですが、実質上は八代 目といわれています。彼は1513年豊後の鎧ケ岳の城主の子として生まれ、若い頃より数々の戦で功をあげて武将としての評価は高く、武田信玄が一度戦って みたい相手に道雪の名前をあげていたといわれるほど、全国に武勇の名が知れていたようです。
 この頃の立花城主の管轄範囲は、博多をはじめ、粕屋・席田・宗像・那珂・早良の五郡に及んでいました。立花城の守りのため武力化した郷民集団組織をつく り、古賀では、薦野党、院内西郷党などがありました。また寺社勢力にも協力体制をつくり、古賀では席内の医王寺、薦野の清滝寺、五所八幡、そして立花城直 下の独鈷寺、梅岳寺、六所神社などの僧侶や神官は準武士団として戦力の一翼をになっていたようです。

 

 

立花城は、1334年足利尊氏の家臣として仕えた豊後の大友貞宗の子貞戴(さだとし)の築城になるものです。彼はこの土地の立花という地名から立花姓を名乗って以来、立花氏は勢威を振るい『筑前の要塞』として重要拠点となりました。

 

現在の立花城跡地

わずかに石垣の後があるのみ

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