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ご祭神

祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

配祀 大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)

当神社に祀る神、三輪の神、大物主神について、文献で最初に記述されるのは、我が国最古の歴史書、『古事記』の上巻にあります。
 それによれば、大国主神が、自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神がなくなられ、独りしてどうしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、 「海を光(てら)して依り来る神」があった。その神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、「お祭り申し上げる方 法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は、「自分を倭(やまと)の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。その後に、「こは御諸 (みもろ)の山の上に坐す神なり」と記されています。
 つまり大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、三輪の神であり、これが大神神社ということでありま す。続いて、同じ『古事記』中巻の神武天皇段に至って、三輪の神は「大物主神(おおものぬしのかみ)」であることが記されます。

 また『日本書紀』には、同じ内容が書かれ、大国主神の別名である大己貴神(おおなむちのかみ)が、協力者の少彦名神(すくなひこなのかみ)がなくなられ たので、嘆き悲しんでいるところへ、海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると言い、 「日本国(やまと)の三諸山(みもろやま)に住みたい」と答える。そして「この神が大三輪の神である」と記しています。
続いて『日本書紀』の崇神天皇8年に、大田田根子(おおたたねこ)が三輪君族の始祖であり、三輪の神が大物主神であることが示されています。

 更に、平安中期の法典であります『延喜式』の巻8、祝詞篇の「出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこかむよごと)」の中には、「己(おの)れ命(みこと)の和魂(にぎみたま)を八咫(やた)の鏡に取り託(つ)けて、 (やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と名を称えて、大御和(おおみわ)の神奈備(かんなび)に坐せ」とあり、大物主神は詳しくは、 と言い、大御和の神奈備【三輪山】にお祀り申し上げたことが記載されています。
いずれも、大和の東方に独座していた三輪山に、大物主神を祀ったことが記載されています。


 

ご由来


 遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおものぬしのかみ)
【詳しくは(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥 にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。
 大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。


 

ご神徳

 国造りの神様として、農業、工業、商業すべての産業開発、方除、治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神として尊崇されています。
 そのご神威は、全国にわたり、古くは朝廷の鎮護として尊崇され、崇神天皇の時代には、その子供の大田田根子(おおたたねこ)をして厚く祭らせられ、長く朝廷の加護を受けました。
 平安時代には、大神(おおみわ)祭、鎮花(はなしずめ)祭、三枝(さいくさ)祭が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、臨時の奉幣も多く、神領を 寄せられ、神階は最高位の正一位となり、延喜の制には官幣の大社として、祈年(としごい)・新嘗(にいなめ)・月次(つきなみ)・相嘗(あいなめ)のお供 物に預かり、のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社に列しました。
中世になると、神宮寺であった大御輪寺や平等寺を中心にして三輪流神道が広まり、広く全国に普及、人々に強い影響を及ぼしました。
 近世に入ると、朱印領を寄せられ、三輪山は格別の保護を受け、その御神徳とともに広く尊信されました。
明治時代となり、神仏習合は廃されましたが、古来からの由緒によって、官幣大社となりました。
終戦後は、国家の管理を離れ、国造りの神様、我々の生活をお守りくださる神様としての信仰が強く、近畿地方を中心に全国からの参拝があり、またご祈祷も多く、信仰厚い人々に支えられ、社頭は賑わい今日に至っています。

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