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立花道雪


戸次鑑連(べっき あきつら)。立花家を継ぎ入道して道雪と名乗る。少年の頃から勇猛果敢であり、14歳の時、父の名代として3千の兵を率いて5千の敵を撃ち破ったという。

 ある日落雷を受け半身不随になり、以来輿に乗って軍を指揮する。合戦の時は常に自ら先頭になり、「わしを敵のただなかに担ぎ入れろ。もし命惜しくばその後で逃げろ」と叫ぶので、士卒は勇敢に戦い、勝利を得ぬということはなかった。
 また「士卒に本来弱い者はいない。もし弱い者がおれば、それは本人が悪いのではなく、大将が励まさないことに罪がある。もしわしの方に来て仕えれば、どんな者でも大剛の者にしてやろう」といい、武功のない士卒あれば「武功は運である。そちが弱い人間でないということはわしはよく知っておるから、抜け駆けして討ち死にするようなことはしなさるな。身を全うして今後もわしの力になってもらいたい。わしはそちのような者を引き連れているからこそ、年老いた身で遅れを取ることがないのだ」と励ましたという。
 人々は深く感銘し「この人の為になら命を捨てよう」と励んだ。

 道雪には嫡子がいなかった。そこで高橋紹運の息子、宗茂を養子にしようと思い紹運に乞うた。しかし宗茂は紹運のたった一人の息子であった為、承知しない。
 道雪は重ねて乞うて曰く「自分は既に七十の高齢に達しました。敵はますます盛んになり、味方はどんどん衰退する有り様。自分の死後、誰があなたと心を合わせて大友家を助けるのか。甚だ心許ない限りです。そこで宗茂に我が家を相続させ、自分の死後もあなたと心を合わせて国を守らせようと考えるのです。これは一家の安泰のためではない。すべて国の為に思うのである」
 紹運はその意気に感動して宗茂を養子に出すことを承服した。

 道雪は大友宗麟が家督争いをしていた時以来の家臣である。「二階崩れの変」では反宗麟の重臣を討ち取り、大内氏や毛利氏が度々九州に手を出したときも奮戦しこれを退けた。宗麟の覇業の初期から貢献した忠臣でありながら、それが報われたとは言い難い。彼に与えられた任は立花城主。最前線の要衝ではあるが、本国からは遠く離れていた。ようするに疎まれていたのである。
 道雪の勇名は宗麟に並ぶものであった。いや凌いでいたかもしれない。しかし主君より立派な家臣というのは、いつの世も疑われるものだ。主家を乗っ取るのではないかと。道雪の忠誠は疑うべくもない。しかしそれが主君に伝わっていなければ何の意味もないのだ。
 道雪は英傑である。しかし主君宗麟もまた一個の英傑であった。十七も年上の道雪に事あるごとに諫言されて、不快感を感じないはずがない。これは器の違いというより、人情というものであった。

 島津家に大敗を喫した「耳川の合戦」には参加できず、事前にその敗北を予測したという。しかし道雪は宗麟を見捨てることはなかった。酒色に溺れる主君を諫めること度々だったし、筑前における大友家の牙城を守り通した。
 前半は君臣間がうまくいって多大な功績を上げたが、後半は不和になり思った活躍ができなかったといえよう。雷神の化身、鬼道雪と呼ばれた彼と宗麟の仲が最後まで良好であったならば、果たして大友家衰退はありえただろうか?


鑑連の家庭は複雑で、最初の妻は大友の重臣の娘でしたたが、謀反事件が起こって離縁としています。つぎの妻は安武鎮則の妹「西姫」で、男女二人の連れ子を条件に再婚しました。(この女の子は後に米多比鎮久の夫人になります。)翌年に女の子がうまれ「ぎん千代」と名付けられますが、男の子が生まれなかったので、ぎん千代が7
才のとき(1575)に立花城の城督を娘にゆずり、自分が後見人になるなど奇妙な決定をしています。これは1571年に宗像氏貞と和睦のとき、その妹「色姫」(25才)を側室に迎えて松尾岳の城においたので、本妻の西姫との仲があやしくなったためだと思われます。

最終的には1581年に、高橋氏の長男統虎を強引に婿養子として迎え入れ、彼がのちの立花宗茂(10代城主)となります。その後の立花勢の戦としては、1580年の竜造寺、秋月、1581年の宗像、秋月、1583年の宗像との合戦などで、高齢の鑑連にとっては厳しい戦国の世であったでしょう。

古賀関係の戦では、1581年鞍手郡の小金原(いまの若宮ゴルフ場)で、宗像、秋月勢と立花軍の衝突があります。立花軍が遠賀の鷹取城に救援米を届けるところを、和睦していたはずの宗像、秋月側がゲリラ的攻撃を行い、立花軍は薦野峠をこえて清滝方面に逃げかえりました。怒った道雪は翌年宗像領に攻め入り、許斐城を占領して
しまいます。この戦の狭間に立たされた色姫は翌年39才で自殺してしまい、宗像氏貞も2年後に病死して、ついに名門宗像家は自立の道をなくしました。
色姫の墓は、青柳石瓦の清水家の前にあります。清水家は色姫に付き添って宗像氏より青柳に移った家柄で、子孫は後年この地区に柑橘類の農業を振興された清水翁です。


色姫の墓
五所八幡宮
青柳寺浦大日如来


道雪も1586年に筑後北野に出陣中に病死し、大友宗麟も1578年の耳川の敗戦以来弱体化が続き、1587年に死亡します。次第に勢力を増してきた島津氏が北上し、1586年に筑紫の岩屋城を攻めて落城させます。此処は宗茂の実父高橋紹運が守っていた城で、763名の玉砕で有名です。

つぎは島津勢の立花城攻略という情勢のなかで、豊臣秀吉の九州平定軍が、黒田官兵衛を先頭にあらわれて、島津義久は川内まで逃げかえり、秀吉に降伏します(1587)。秀吉による九州統治政策で、立花宗茂は筑後四郡の領主として柳川へ領地替えになり、立花城を去ります。小野、米多比、由布、丹、など殆どの重臣は一緒に柳川にうつりますが、薦野の一部、森、横大路など粕屋に留まって、のち黒田に使えたり、帰農して庄屋や村役になったりした武士もいました。

後任の小早川隆景は、伊予から筑前に入封しますが、海戦の将らしく山城を捨てて、海城を名島に築城します。立花城は廃城になりその城石は名島にはこばれたそうです。古賀としては城が遠のいただけ、戦乱の危険もなくなったわけですが、この後は戦国時代そのものが終わりを告げたので、筑紫における内戦そのものがなくなりました。

(医王寺と独鈷寺)

道雪の母は由布院城主の出でしたが、道雪が2歳の時に亡くなり、後妻の養孝院(臼杵越中守鑑速の姉)に、実子のように育てられました。1567年に養孝院が亡くなった時、道雪は梅岳寺(曹洞宗)に埋葬して寺を再興し
ますが、開眼供養の開祖として、古賀市筵内の医王寺(曹洞宗)の緒庵和尚を迎えます。

その後1585年に道雪が筑後の戦場で病死したので、梅岳寺に母と子の墓が並んで建てられます。道雪は梅岳寺を立花城の山頂に移したいという希望をもっていたようですが、引き続く戦乱でその意志は実現しないままでした。立花氏は前に述べたように、宗茂の時代に秀吉の命により柳川に移封になります。やむなく梅岳寺も柳川に移されますので、立花口の梅岳寺は衰退する一方でした。四代黒田藩主綱政の夫人は、道雪の曾孫にあたる呂久子で、この衰退を悲しんで道雪の影像を掲げる堂を建立します。この影堂のなかに道雪、養孝院、色姫の位牌が並べ
られているようです。


 

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